1868 — 2025
会津若松
このまちの150年
戊辰戦争の焼け跡から、スマートシティへ。
市のオープンデータと出来事でたどる、まちの記憶。
↓ スクロールして1868年から辿る
1868 — 1898
物語のはじまり
この時代の統計データはまだ存在しません。
出来事だけが、まちの記憶を伝えています。
戊辰戦争・会津戦争、鶴ヶ城開城
戊辰戦争の激戦地となり、約1か月の籠城戦の末に鶴ヶ城が開城。城下は大きな被害を受けた。このまちの150年の物語はここから始まる。
若松県が福島県に編入
若松県・磐前県・福島県の3県が合併し、現在の福島県が成立。若松は県庁所在地ではなくなった。2026年は福島県成立からちょうど150年にあたる。
会津三方道路の開削
福島県令・三島通庸の指示により、山形・新潟・栃木方面へ通じる三方道路の工事が進められ、1884年に竣工。会津と周辺地域を結ぶ交通の基盤となった(要確認:着工年)。
1899
統計のはじまり
市制施行とともに、人口の記録が始まります。
ここからは、データでまちが見えてきます。
1899 〜 1909
1899年の人口:30,488人
鉄道が若松に到達(岩越鉄道)
岩越鉄道の山潟—若松間が開通し、郡山—若松間が全通(7月15日)。会津が初めて鉄道で外の世界とつながった。市制施行と同じ年の出来事。
歩兵第65連隊が若松に駐屯(人口が急増)
統計上、この年に人口が前年比約10%増加。日露戦争後に新設された第13師団の歩兵第65連隊がこの年若松に置かれており、その影響とみられる。市の年表にこの年の編入合併の記録はない(要確認:人口急増の要因)。
1910 〜 1919
1910年の人口:37,166人
1920 〜 1929
1920年の人口:45,492人
第1回国勢調査
日本初の国勢調査が行われ、若松市の人口は45,492人と記録された。以後5年ごとの調査がまちの姿を刻んでいく。
1930 〜 1939
1930年の人口:43,996人
1940 〜 1949
1940年の人口:49,824人
終戦、引揚者・疎開者の流入
統計上、この年に人口が前年比約19%増加している。戦災を受けなかった会津への疎開・引揚によるものとみられる(要確認:増加の要因)。
1950 〜 1959
1950年の人口:60,034人
7村合併により会津若松市が成立
周辺7村との合併により市名が「会津若松市」となった。統計上も人口が64,881人から97,885人へ33,000人以上増加している。
1960 〜 1969
1960年の人口:99,546人
1970 〜 1979
1970年の人口:104,065人
1980 〜 1989
1980年の人口:114,528人
1990 〜 1999
1990年の人口:119,080人
磐越自動車道が開通(会津若松IC供用開始)
猪苗代磐梯高原IC〜会津坂下IC間の開通(10月29日)により会津若松ICが供用開始。郡山経由で首都圏と高速道路で直結した。1997年10月1日には新潟までの全線が開通した。
2000 〜 2009
2000年の人口:118,118人
人口のピーク(130,349人)
合併後のこの年、人口は130,349人と統計上の最高値を記録。以後は減少に転じ、まちは新しい局面に入る。
2010 〜 2019
2010年の人口:126,220人
スマートシティ会津若松の取組開始
平成25年2月の施政方針で「スマートシティ会津若松」の推進が掲げられ、ICTを活用したまちづくりが始まった。
2020 〜 2025
2020年の人口:117,376人
2026 〜 2065(推計)
ここから先は、まだ書かれていない未来です。
2065年、このまちの人口は?
- 現状のままの推計:59,761人国立社会保障・人口問題研究所の調査に基づくパラメータを使った推計(現状推計)
- 長期人口ビジョン(市の目標):96,261人出生率上昇(2030年2.0→2040年2.2)と社会増減±0に加え、ICT(会津大学)・ICTオフィス・観光を核とした交流人口増加の押上げ効果を考慮した推計
ふたつの未来の差は約4万人。この差を埋めるのは、これからのアイデアです。
※推計は2015年国勢調査を基点とした値のため、実測の線とは段差があります
出典:まち・ひと・しごと創生人口ビジョン 人口推計データ(CC-BY)
いまのまちのかたち
150年の歩みの先にある、いまの人口構造。
年を切り替えると、まちのかたちの変化が見えます。
まちを知る、ほかの入口へ
市勢統計の全表をグラフで眺める「データ図鑑」、 文化財と史跡を巡る「マップ」もどうぞ。